サイト運営者プロフィール

基本情報


はじめまして。
トシです

・1985年12月8日生まれ(35歳)
・大阪府出身
・4歳と1歳(娘2人)の父親
・営業マン兼動画クリエイター

動画クリエイターとして日々奮闘中。

・After Effects
・Premiere Pro

を使いながら下記のような仕事をしています

主な仕事内容

・企業PR動画
・サービス紹介動画
・WEB広告動画
・インフォグラフィックス
・YouTube動画

などの仕事を請け負ってます。

月収でいうと、2021年10月時点では30万~80万円くらいの感じですね。
現在は映像制作の仕事をしながらWebマーケティングを学びつつ羽ばたくための準備中です。

今ではこれくらい稼ぐことができるようになりましたが、
ここまで到達するには非常に苦労しました。

迷走しすぎだろって感じです!

じゃあ、トシって実際どんな歩み方をしてきたの!?ってのは下記を読んでもらえればと思います。

幼少期〜中学生時代 : ド底辺の基盤づくり


私は1985年12月に大阪で生まれました。
家族構成としては両親と姉、弟の5人家族。

親父は電気工事士、母は事務員。

裕福ではないけど、貧乏でもないって感じのいたって普通の家庭です。

変なところと言えばベランダに風呂があったこと。
古い市営住宅で風呂がなかったので親父が考えた案だったらしい!

もちろん露天風呂みたいな感じではなく、
壁とガラス窓、風呂用のカーテンは付けております。

ただ冬はめっちゃ寒かった。(笑)
ってな感じの家で育ちました!

特に特技もなくゲームが好きだったのでボチボチと暮らしてた感じです。

しかし、そんな平凡な日々が急に崩れるできごとが発生します。

僕が小学校3年生の時です。
親父が病気をして倒れたのです。

はじまりは『右足がしびれる』と言い出したことです。

すぐに病院にいき精密検査を受けます。
けど特に異常が見当たらず。

そのまま放置することに。

しかし、数日たっても右足のしびれは消えない。
どんどんしびれは増していき、とうとう倒れます。

さらに検査をした結果、脊髄が炎症していたのです。

緊急入院し、もしかしたら一生車いす生活かもという事態にまで発展。
子供ながらに『大丈夫か?』と不安を感じたのを覚えています。

母も子供を育てながら、親父の看病をし『この先大丈夫か?』と不安に感じながら子供を育てる。
半端ないストレスがあったのだろうと今は思います。

今になって思えば親父も母も本当に凄いなと。

最終的にリハビリを続けて後遺症は残りながらも歩けるようになるまで回復!
子供ながらに『やるな親父!』と心の中では叫んでいました!(伝えてませんが)

そんな頑張っている両親を見ながら育ったのにも関わらず、
中学生になってからは勉強とは縁を切り落ちぶれ人生が始まるのです。

高校生〜新社会人 : 加速する落ちこぼれが度合い


高校に入学してからは勉強のできない度合いは加速していきます。
どんどん勉強が嫌いになり遊びに走る高校生活。

落ちこぼれ度合いが、さらに加速することに。

まず遊ぶお金が欲しくてアルバイトを始めます。
そこで困難が待ち受けていました。

履歴書という壁です。

当時の私が書く履歴書って、今考えると残念な子と感じられるレベルです。
志望動機に『遊ぶお金が欲しいため』とか書いてたくらいですから。

どこの面接を受けても受からない。(笑)

今思えば答えはでてるのですが、当時は本当にわからなかった。

『なんで受からないの?』と悩み続け、出した答えが『やる気をみせる』です。

そこで当時15歳だった私が取った行動が飛び込みで雇って欲しいとお願いするやり方でした。
人付き合いなどは苦手ではなかったので、なぜかやってみるかみたいな感じで行動した感じです。(笑)

10件ほどアルバイト募集の紙が貼っている店を回りながら飛び込みました。

その結果、焼き肉屋のアルバイトができるようになったのです!
この時、行動すれば何とかなるなと感じました。

まぁーこういう感じで高校生活を終え卒業することに!

大学へは行かず、社会人生活がスタートします!

18歳〜25歳 :現場仕事~営業職へ


就職したのは床を貼る会社です。
イオンなどに入っているテナントの床を貼るような仕事です!

当時の僕は体を動かすような仕事がむいていると感じていたのですごく楽しかった。

納期がある仕事なので、現場が重なったり短納期案件があると土日祝に関わらず仕事があります。
夜勤の仕事もあり、それなりに辛いこともありましたが。

そんなこんなで5年ほど頑張ってきたのですが、
床を貼るだけしかできないと嫌だなと考え転職を決意。

ここから転職生活が始まります。

仕事をやめてから、どんな仕事に就こうかと考えた私は『営業できれば何とかなる』と
床を貼る会社の社長さんに聞いていたので『営業やってみるか!』的なノリで転職先を探すことに。

人間って不思議なもので15歳の時は履歴書の書き方すらわからなかったのですが、
社会にもまれることで成長したのでしょうか、それなりの履歴書をつくることができたのです。
(普通はつくれますが・・・)

そこから数社面接を受け、当時営業は未経験でしたが年齢が24歳ということもあったのでOA機器を販売する会社の内定を勝ち取ることに成功!

ここから『地獄の営業ノルマの日々』が始まるのですが、当時の私は知る由もありません。

業務内容としてはひたすら下記を繰りかえす感じです!

・テレアポ
・飛び込み営業
・ロープレ(営業の練習)
・毎日朝礼での意気込み発表(本日何件受注します!など)
・毎週の会議(ノルマづめ)

この中でも営業会議のノルマの話は本当に辛かった。

営業経験者あるあるですが、売上があがらなかった時はこんな感じの罵声が飛び交います!笑

ノルマ会議の地獄言葉

・売り上げをあげなければ、ただの給料泥棒
・お前はホームレス以下
・何のために存在してる?
・売るまで帰ってくるな
etc…

営業会社で働く場合はノルマ耐性を作れないと続けるのは不可能ですね!笑

あまりのストレスに1年ほどでギブアップ。
転職することに・・・

今なら思い出話で笑えますが、この時はストレスでフラフラ状態です!笑

仕事を辞めてから、いろいろと悩みました。
25歳の低学歴で特に強みもなく、その当時は資格取得が流行っていたと思います。

そこで私が取った行動が『簿記を勉強しよう!』です。
なぜか会計まわりの知識は役に立つだろうと思って勉強を始めます。

この時、勉強に対して初めて本気で頑張ったと思います。
頑張ったかいがあり『簿記2級』を合格。

人生で初めての成功体験だったと思いますね!笑

でもすぐに簿記という資格を持っているだけでは転職に有利にはたらかないことを実感します。
当時は打ちのめされました。

しかし努力したことに関しては非常に良かった。
勉強するのって楽しいなって思えましたから!
今の人生に繋がっている感じですね!

そして3社目の就職先が決まります。
パジャマを販売する会社です。
営業をやりつつ出荷作業もするような感じの職場でした。

2年ほど続けたのですが、また転職をすることにします。
当時は給料も安いし楽しくないなくらいの感覚で転職を決意した感じです。

27歳〜31歳 : ようやく落ちつく会社を見つける


パジャマの会社を辞めたときの年齢が27歳。
27歳にして3回目の転職となると多いかなという自覚はありました。
そこで、またしても新しい能力をつけたいなと考えるのです。

当時はスマホが世に広まりだして5年ほどだったと思います。
伸びしろが凄そうだと考えて、アンドロイドアプリを作るためにプログラミング教室に通います。

頑張って簡易アプリくらいは作れるようになりました。
いざ就職活動をすると1社だけアプリを作る会社に内定を貰いましたが・・・
なぜか就職をしなかったのです。

今から振り返ると行動が意味不明なのですが、
当時、勉強もろくにしたことがなく、営業と現場経験しかない人間に、
プログラミングを仕事としてできる自信がなかったのです。

もったいないことをした。と気づくのは数年後ですが・・・

そこから就職活動を再開します。

次の就職先が決まったのが機械を販売する会社の営業です。
ルート営業といって決まった得意先に販売をしていくようなスタイルの営業です。

27歳ということもあり、さすがに頑張ることを決意。
ここからは少し安定して働きだすのです。

そして29歳の時に結婚。
31歳の時には娘も生まれます。
めちゃくちゃ可愛い。

そこから将来のことを考えていくうちに
『貧乏生活や自由な時間がないのは嫌だな』と考え副業を始めます!

32歳〜 : 副業生活のスタート


ここから私の副業生活がはじまったのです!
今思えば、この判断が生きてきた中で一番の正解だったと思います!

後に挫折も繰り返すのですが・・・(笑)

初めての副業はせどり
これがやってみると意外と簡単でうまくいきました。

当時はモノレートというサイトで販売したい商品がAmazonで一か月に何個ほど売れているのかというのが
見れてしまう神サイトがあったのです。
今は無くなって違うものに変わっているみたいですが。

そのサイトや他のツールを利用しながら店舗せどりという副業をしていきました。

売上ベースで100万円以上の時もあって、それなりにお金を稼ぐことができました。
ただ、仕事量が多すぎる!

店舗せどりをメインにやっていたので、平日仕事を終わってから
ホームセンターや家電量販店をまわる日々。

休日もまわる。

そんな日々を半年ほど続け、
大変すぎたので、せどりを辞めて中国輸入を開始。

これが大失敗に終わったんです。

せどりが簡単だったので『楽勝だろ!』くらいの感覚でやってみようと手をだしたのです。

中国輸入はしっかり勉強して始めれば稼げるのでしょうが、
せどりで変に自信がついていたので、ろくに勉強もせず始めたのです。

なるべくしてなった大失敗ですね。

在庫はめっちゃかかえるし売れない。
本当にバカだなと思いますね。

それで物販からは一度撤退をしました。

一回目の副業挫折です。

私の良さは諦めないことかもしれません。
悪いことは分析をしないことです。

すぐに次は何をしようかと考えたのです。

ここから副業で調べていくと、『ブログ』というものにたどり着きます。

本を読み、ネットで調べてWordPressでサイトを作る。
ここまでは順調です。

毎日更新がいいなどtwitterで見かけたので頑張ってみたけど無理でした。
でも取り敢えずは2~3日にペースで投稿をしました。

半年が経過したけど、アフィリエイト収益は0円。
アドセンス広告で数百円程度でした。

それでも頑張ってPV数が伸びだした時にアップデートがあり、
一撃でアクセス激減。

そこから2度と、そのサイトに投稿することはなくなり消滅しました。

これが二回目の副業挫折です。

ここで学んだのは、『独学の限界』です。
やはり覚える時間が掛かることや、自分がしていることが正解なのか不正解なのかがわからないからです。

でも稼ぎたい。

次に動き出します!
出会ったのが『動画制作』です!

今の仕事ですね。

自分なりに一生懸命に調べました。

そしたら

・YouTube編集は単価が低い
・ディレクションができないと稼げない

などのネガティブなことです。

でも中には編集作業で1本数十万の作業をしている人がいることにも気が付きました。
それが企業系の編集をしている人たちでした。

そこを狙いにいこうと決心し、もう独学はダメだと思ったので、
スクールに通います。

そこで編集のノウハウを学びました。
ある程度の編集作業はできるようになりました。

あとは営業をかけるだけだったので、ひたすら営業をかける。
それが良かったのか、数社取引ができる企業様を獲得し、現在30万~80万円くらいの売上を上げることに成功。

編集作業は外注協力者様に任せ、仕事を取りに行くのが仕事となっている。

今はWebマーケを学びながら仕事の幅を広げていこうとしているのが現在の位置です。

このサイトでは、これから動画編集者になりたい人に向けて下記のような情報を発信していきます!

このサイトの発信内容

1.営業しかないできない人でも稼げる副業を紹介
2.編集スキルが低い自分でも動画編集で稼げた理由
3.営業スキルを活かして少ない労力で月10万円を稼ぐ方法
4.副業に活かせるWebマーケティングの知識

このような情報を発信しますので、ぜひ参考にしていただけたら嬉しいです!